「君の行方」

男の人がおごると言いだしたときは、「割り勘でいいよ」と言って、「いやいや、いいから」と返されても、もう一回「いいよ、出すから」と言うべきらしい。
「そうかなあ。若い頃は断固割り勘にしようとしたけれど、今思いかえればそんな押し問答をせずに、気持ちよくごちそうさまと言うべきだったのかもと反省してるけど」二十歳そこそこの自分を思い返して私が言うと、「俺はもう一回言ってほしいんです」と強く主張された。
 
我々は君と数カ月ぶりに会っていた。我々、つまり二年前にカナエールのスピーチコンテストでエンパワーだった大人たちは、今日はじめて学生でない君に会う。大人になった働く君に。
君とお酒をのみ、恋愛の話をする日がくるとは思わなかった。はじめて会ったとき、君は高校生で、制服を着て大きなマスクをしていた。人前で話すのだからマスクをとるようにと言った私に、君は不本意そうだった。
 
君は夢を叶えて美容師になった。あの日スピーチをした夢を叶えたわけだ。自分が望んだ職業についている人はきっとそんなには多くないわけで、それだけで君は誇っていい。とはいえ夢が叶ってめでたしめでたしというわけにもいかない。そこがスタート地点なのだから。
東京を離れ、新天地で一人暮らしをしながら仕事をする。「心配していたけれど、順調そうでよかったよ」君がトイレに立った隙に、私は我々のうちの一人に話しかける。
 
出会って間もない頃、君は優等生だった。少し冷めていて、こなせばいいと思い、あまり心を開いていないことに我々は気づいていた。君のそんな姿勢に我々はどうすればよいのだろうと悩みながらも、日々を重ねるうちに、君の負けず嫌いで、熱いところを知っていった。
 
あの頃はなんだかひどく焦っていた。スピーチコンテストまでの限られた時間の中で、今君の力にならなければ、今君に有益になるようなことをしなければと思っていた。過ぎ去ってからでは遅いのだと。過ぎ去ってしまった今となっては、もっとゆっくり君を見守ればよかったのに、もっと余裕をもって君と話せばよかったのにと思う。けれど我々も未熟で、いや我々こそ未熟で、君の言葉に何度もはっとさせられた。
 
スピーチの最終練習のとき、君は堰を切ったように話しはじめた。過去のこと、家族のこと、どうして美容師になりたいのか、スピーチを誰に聞いてほしいのか。コンテストは二日後だったけれど、我々はこのスピーチが既に十分に意味があるものになったことを確信した。君が何かに向き合った瞬間に立ち会えたあの日、我々は君との絆をはっきりと見たのだと思う。
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君は一歩一歩を踏みしめるように成長している。
仕事も順調で、職場での評価も高く、自信に満ちていた。順調なことは予想がついていた。美容師の専門学校の時、君が毎朝早く学校に行って自主練習をしていたことを我々は知っていた。君は決めたことは必ずやり遂げる。もしかしたら時間がかかるかもしれないけれど、君のその努力は必ずや花開くと我々は信じている。
今のところは順調のようだ。とはいえ、人生は雲行きが悪いときや、何をやってもうまくいかないときもある。君が停滞し、悩み苦しむとき、我々は大層なことはできないかもしれない。我々ができることと言えば、こうして君に会い話を聞き、そして日々の生活の中で君が引っ越した新たな土地に思いを馳せ、君のことを思うくらいだ。
 
君はかつてより血色もよくなりびっくりするくらいかっこよくなった。職場の先輩にマスクを外した方がいいと言われて、今はマスクをしていないのだと君は言った。以前は、マスクをすると安心したし、歯並びが気になっていたのだと。そんなこと全然気にならないよと私は言い、君がマスクを外して街を歩くようになったのだと我々はうれしかった。